こんにちは Lulu.です。見た瞬間、奥底から強烈に揺さぶられた牟田陽日(むた ようか)さんの器。古と今、東洋と西洋、アートと日本美術、美術と工芸の思考の間を漂流するように、その独特の美感をのせた色絵磁器を制作されています。
《二面宝浜亀》
ロンドン大学ゴールドスミスカレッジファインアート科卒業、コンテンポラリーアート作家として活動した後、石川県立九谷焼技術研修所で九谷焼を学んだという牟田さん。作品の生まれる源を伺いました。
*九谷焼に興味を持ったきっかけは?
イギリスのアンティークの焼き物を見回っていた在英時代、お土産で頂いた九谷焼の急須がいわば「出合い」です。少しそのイギリスの陶磁のタイルの色合いにも似た、青、緑、黄色のビードロのような質感と大胆な花絵柄に、「これは面白い!」と興味を持ちました。
時代の中で多様な技法を受け入れ、自由にあり方を変遷させながら発展したので、一つの分かりやすいシンボルでは表せない九谷焼。なので今まで曖昧なイメージしか持っていませんでした。しかしそういったところも含めて、九谷焼は少し不思議で可能性に満ちたエキサイティングなやきものなのです。
絵と違い、磁器は鑑賞者との距離が近いという。実際に触ったり、口を付けて味わえたりする。それは流れ込むエネルギーを感じること。この体感はとても大切。
《山水酔景図 滝》北斎の「木曽路ノ奥阿弥陀ヶ瀧」から着想を得、注がれた酒が中央の滝から溢れ出てくるように構成されたぐい呑。
《a pillow》
異形の黒蜥蜴のような小竜が半分崩れた枕に陣取っている。眠りと夢の間の甘美な不安。
*頭の中にあるものが形作られる過程における想いとは
私の場合、頭の中にあるものが10だとすれば、実際に形作られているのは1~2程度のものです。手がなかなか脳に追いつけないはがゆさを、もしかしたらクリエイターは皆抱えているのかもしれません。
今は磁器という素材に巡り合えたことを嬉しく思っています。難しい素材で思ったようにいかないことも多いのですが、そこから何かが生まれたり、また少しずつ確かめるように手に馴染ませていく感覚がいまだ新鮮で飽くことを知りません。
《霊虫》虫の霊魂。あるいは虫の形をした微細な超自然の抜け殻。
*なぜ「霊獣」「神獣」なのか
神社・仏閣では建築の中に取り入れられ、さらに現代ではファンタジーの中に描かれるモチーフでもある霊獣は、陶磁器の絵付けとしては古典的なものです。太古に自然や未知のものの象徴であった存在のその複雑な変容は、アジアにおいての自然への意識変化とも重なります。そして陶磁器は、幅広い役割を担い人々の生活と信仰に関わってきた素材です。つまり、器と神獣という組み合わせは私にとって古と今の混在した興味深いコンビネーションなのです。
《春雷獣図》春雷とともに落ちてきた獣が桜の木にしがみついている。
牟田さんの作品を目にした時に感じたのは、多重な次元を串刺しにした世界。ミルフィーユのように重なる次元それぞれに住む霊獣たちとの会話が、器の上で成されている。
《青の麒麟》草花を踏まぬよう静かに足を運んでいる幽山に佇む麒麟。
生命への愛が感じられるんです。草花を踏まないようにしている麒麟も、この松の間で景を楽しんでいる米粒のような人たちへも。
《山水酔景図 松》器の形状を近景と遠景に見立て、山水画の景色を当てはめた。
《誕》夢の中の朦朧。生死の狭間を乱れ飛ぶ清濁いり交じった数多の異形の図像達。中央の三つ頭の迦陵頻伽が運ぶ玉は生命の象徴。
はじめに墨で輪郭線を形どっていくやり方を「骨描き(こつがき)」と呼ぶそうです。ある九谷の師の言葉に「虎は虎の気持ちになって、竹は竹の気持ちになって、雲は雲の気持ちになって描け」とあるそう。
描き手がモチーフに持たせたいイメージを、線の一本一本に反映させることによって全体の印象と緊張感を作り出すのだ。線は絵の世界を支える骨であり脈なのだ。
土地にも人体にも宿る気脈、エネルギーの通り道。それは生命を形作っているもの、世界を構成しているもの。私たちも他のものも、細かくしていけば全て素粒子(エネルギー)。
《清渦龍神図》二頭の龍が水底で邂逅している。皿の縁では鯉が龍へと徐々に神化していく。
*彼らは何を語りかけてくるのか。そして器に宿った時にどのような一体感(平面になった時の獣の反応というのか、変化のようなもの)が生まれるのか。
私が霊獣やその他の獣や生物を描く時、最も慎重になるのは目です。人間的な分かりやすくデフォルメされた感情の表情が出ないように心がけています。古典の龍などは畏怖の対象として恐ろし気な睨みの表情で描かれていることが多いですが、私の場合は魚や爬虫類のような真ん丸で少し無機質な目にします。
自然にしても他の動物にしても、人から把握できることは僅かなもので、その多くを想像力でもって自分の近くに引き寄せていると考えています。それらの印象や幻影が文化の中で重なっていき、私を通して器の中に描かれているのです。
《A ghost》森の中に棲む猿のような形をした精霊、もしくは猿の形をした森の幽霊。
手足の形が生々しい。人語を話しそうだ。
人から把握できることは僅かなもの。見えないものを視る力=想像力。想像した世界は想像出来た時点で、自分にとって「確かに存在する」ものになる。
「静」の線で、「動」の情景、生物、風、波を描くアンビバレントなバランスが理想だ。
《青釉獅子牡丹図》九谷の青を自作に取り入れたいと思い制作した最初の碗。
《白黒象極楽図》花で飾られた象達は悠久のやすらぎの世界にいる。安寧な天上の世界を思い描いた器。
ワット・サームプラーンで出会った放生された象さんを思い出した。(記事「龍が巻きつく寺院 ワット・サームプラーン(Wat Samphran)/ バンコク旅行記③」)
*牟田さんにとっての「美」とは
作品集「美の器」での「美」とは一般的な形容の美醜のことを意味していません。人が抱く「よきもの」というアイデアに近いものです。一般的に不快なものやおぞましい物も人によって「美」となりえます。
また、形容や物理的なものから切り離した精神や理論に「美」を見出すこともあるでしょう。信仰や生活にも「美」は宿ります。
しかし自分にとっての「美」に対して多くの人が自覚的というわけでは勿論ありません。作家である自分も日々世界から影響を受けつつ自答自問を重ねながら模索しながら、一つのあるいは幾つかの「美」を作品の中に提示しています。
《海龍》海面を勢いよく走り泳ぐ龍
惹き込まれるのは、牟田さんが「自分の形」と表現されている形。手びねりというと、素朴な味わいといったイメージですが、牟田さんの手びねりは振動している。命の躍動感と、今ここに存在する喜びが感じられる形。
《えびす》素地の形と釉の表情と上絵の絡みが絶妙にうまく絡みあった壺。
粘土を触ること自体の泥遊びのような原初的な喜びが、焼きあがった物にも滲み出てる。無垢な土感ではなく、岩や木のような自然物の模倣と誇張が繰り返された癖の強い形を求めていく。
《えびす鉄紺》跳ぶ座頭鯨
《金えびす》より現世離れしたした神秘な金の鯨。
歪(いびつ)って美しい。物分かり良く収まったものからは感じられない魅力が存在する。その人、そのものだけが持つ特徴。もしかしてそれは欠点とか短所という言葉で置き換えられるかもしれない。規格外の突き抜けた美。
《えびすわんびらき》海を注ぎ込むように波を描いた。器の外と内がつながり、体と絵が一体化した。そこに在りつづけるうねりとしぶき。
原始の風景と南国の果実と極彩の昆虫を染付文様に組み合わせた《染付密林大蜥蜴図》。羊歯や芭蕉の繁る熱帯雨林とミズオオトカゲ。
時代や文化や土地の異なるものを並べた時の心地良い違和感。牟田さんの「驚異の部屋」。
《蓬莱山》法隆寺の「蓬莱山蒔絵袈裟箱」の図案からの引用。巨大な亀の上にある仙境。
秦の始皇帝の命を受け、不老不死の仙薬を求め東方に船出した徐福が目指したのが三神山。そのうちの一つが蓬莱山。そして『竹取物語』の「東の海に蓬莱という山あるなり」を思い出す。
子どもの頃、かぐや姫を読んでなぜか「月の内部は空洞なんだ」って思った。今でも勝手に信じてる。
*牟田さんにとっての「自然」とは
自分にとっての「自然」とは?というのはあまりにも大きな問いですが、制作の中では「少し切り離されたもの」として扱うようにしています。
私が描いているものは自然そのものではなく、いわば「大いなる自然」の残像とそこから生まれた行方の知れない何か、なのです。
《白澤瑞景図》万物を知る聖獣であり病魔除けとされる白澤。正面は迫力ある表情、裏では静かに老木に寄り添っている。
哀愁を感じる後ろ姿。
白澤って会えるととても嬉しい。(記事「新・北斎展 HOKUSAI UPDATED」〜永田コレクション最後の東京公開」)
《竜宮の使い》深海に煙る異形の魚。美しく恐ろしく。
語感といい、生態といい、その優美な姿といい…なんて神秘的な生物。神話や伝説は単なる物語ではなく、忘れ去られた真実や大切な要素が散りばめられているように感じる。それらと現実の橋渡しをしてくれるような竜宮の使い。会いたい。
牟田さんの器は、多次元を自在に漂う「既視感と違和感」の小宇宙。是非この耽美な世界に酔いしれてみて下さい。
牟田陽日個展 銀座蔦屋ATRIUM
2021年 8月14(土)ー25(水)
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